「情熱に従う」よりも「情熱を従える」ことの難しさと、それを乗り越えるためのプラクティス

Taka Umada
16 min readMay 5, 2019

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※2019/5/6 追記『「情熱を育む」ための環境を自らデザインしよう』という記事を書きました。5/9 追記:引用の要件を満たしていない可能性のある画像を削除しました。

一つ前の記事では、「やりたいことが見つからないのですが、どうすればいいですか?」というよくある質問に対して、「情熱を探そう」というよくある答えではなく、「情熱を育てていこう」と答えてみてはどうか、という提案を行いました。

一方、「やりたいことが見つからないのですが、どうすればいいですか?」という質問に対して、「情熱を探そう」以外によくある答えの一つが「情熱に従え (Follow your passion)」というものです。

しばしばこの「情熱に従え」といったアドバイスをしている大人を見かけます。たとえば Dropbox のドリュー・ハウストンも MIT の卒業スピーチで、犬が追いかけてしまうテニスボールを情熱に例えて「自分のテニスボールを見つけよう」と述べています。

前回の記事でも参照した The Passion Paradox で紹介されている、こんな CEO も情熱をとても重視していたそうです。

彼は数兆円の時価総額の会社を経営し、「どんな要素よりも、私は情熱 (passion) を高く評価する」と述べていました。そして実際、その会社では多くの従業員が早く会社に来て、夜遅くまで仕事をする働きぶりで、特に幹部陣は先頭に立って情熱的に仕事に精を出していたそうです。Fortune 紙は、そのCEOの在席中に「アメリカで最もイノベーティブな大企業」と褒め称え、会社の株価も市場の平均的なパフォーマンスを大きく超えました。

この CEO はエンロン社のジェフリー・スキリングでした。皆さんご存知の通り、エンロンは巨額の不正経理を働き、スキリング氏は12年の刑期を言い渡されました。

同様に、不正な資金調達を行ったとされるセラノスの創業者だったエリザベス・ホームズも、薬物を使ってホームランを連発していた疑いのあるアレクサンダー・ロドリゲスも「情熱を探そう」「情熱に従おう」と言っていたそうです。彼らは情熱を探し当てることに成功した人物とされ、そして事件が発覚するまでは成功者と見なされていました。

しかしその情熱はどこか歪んでしまっていて、その情熱に振り回されてしまったようです。彼ら彼女らのように、私たちは強い情熱に従った結果、行き過ぎてしまって何かを間違ってしまうことがままあります。

The Passion Paradox という本に「パラドックス」という単語が入っている理由の一つはここにあります。

豊かな人生を送るために育てたはずの情熱が、いつの間にか歪んだ方向に大きくなり、コントール不能になって、私たち自身が情熱の奴隷になってしまって人生を狂わせてしまうことがある、ということです。

情熱とうまく付き合い続けることが難しい

情熱と愛はよく似ています。愛に関して言えば、『愛するということ』でエーリッヒ・フロムはこのように述べています。

愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

情熱も同じで「情熱を見つける」あるいは「育てる」という最初の体験と、情熱の中にうまくとどまっていることは違う難しさがありそうです。恋人関係や友人関係、家族関係を思い浮かべれば、その難しさの違いに私たちは容易に気付けるはずです。

しかし恋愛や結婚では、成就するまでの難しさが注目されがちです。多くの書籍や記事、そして物語は、恋愛成就や出会いの方法、結婚相手の見つけ方を語ります。それは「情熱を探す」ことに力点が置かれがちな情熱についても同じでしょう。

時間によって愛の形が変わっていくのも避けられないことです。燃え上がるような初期の愛から、お互いを思いやる静かな愛に代わっていくにつれて、その愛との付き合い方は変わっていくはずです。そして変わっていく愛の関係をうまく乗りこなして維持するには、意識的な努力が必要です。

それは恐らく情熱にとっても同じなのではないかと思います。

エンロンやセラノスのCEOの話を上記で紹介しました。彼らが不正を働いたのは、最初から歪んだ情熱を持っていたからでしょうか。私はそんなことはないように思います。情熱を傾けられるものを見つけて、徐々にのめりこんでいった結果、いつしか彼ら彼女らの情熱は業績や他人からの評価というものに移り変わってしまったのではないでしょうか。そして歪みつつある情熱をうまく自分でマネジメントできず、情熱に自分が従わされた結果、彼ら彼女らは詐欺や不正を行ってしまったのではないでしょうか。

私たちの身の回りでもこんなことはしばしば起きます。たとえば最初は SNS での活動を楽しんでいたのに、徐々に「いいね」の数などを気にし始めたり、ときには良い写真を撮るために自分の身を危険を冒したり、他人を道具として使う人もいます。研究者の世界でも、最初は好きという気持ちや真実の追求という大義で始めたであろう研究者たちが、助成金獲得などの競争環境に置かれたせいか、再現性のない研究成果や粗雑なデータからの結論を出してしまっていることが、この数年生命科学心理学の業界で問題になっています。

情熱が愛と似ているのであれば、情熱を見つけたり育んでいったあとに待ち受ける本当の困難とは、「情熱とうまく付き合っていくこと」です。そして時とともに変わっていく自分の中の情熱と、継続してうまく付き合い続けていくことにこそ本当の難しさがあります。

見つけた情熱や育てた情熱の中に正しくとどまりつづけること、そして情熱に従わされないように、情熱を自分に従わせつづけることが難しい、とも言えます。

情熱を持つことによる困難

そしてどんなに情熱を持ったことに取り組んでいても、精神的に追い詰められることはあります。たとえば何かにのめりこみすぎて、燃え尽き症候群になることもあります。情熱を生産的に長く維持することはとても難しいことです。情熱をもって事業に取り組んでいる起業家は精神を病むことが多く、「メンタルマネジメントが起業家にとって身に着けるべき最も難しいスキルの一つだ」とも言われています

(ちょうど最近、Qiita を運営する Increments の海野さんもその旨の記事を書かれていました

さらに情熱を持つと、自分の中の情熱の炎が消え去ってしまうこと(飽きてしまうこと)を恐れる日々が続くかもしれません。大勢の他人を自分の情熱に巻き込んでしまった後や、資金調達をしてしまった後ならなおさらです。そんなとき、誰かへの愛と同様に、いつまで自分の体にこの情熱がとどまり続けてくれるのだろうと不安になることもあるでしょう。

もちろんどんな情熱にも必ず別れはやってきます。うまく離れられれば良いですが、情熱を持ってスポーツに取り組んでいたアスリートがリタイアしたあと、薬物や賭博にはまってしまうことはしばしば聞きます。その理由は、情熱を持って取り組んでいたスポーツなどから得られていた興奮を、薬物やアルコールに求めてしまうからではないか、というのが The Passion Paradox の著者らによる分析です。彼らは「情熱と中毒は似ている」とすら書いています。自分のすべてを賭けていたからこそ、失ってしまった時の影響は大きく、情熱を持って取り組んでいたことから離れた瞬間に、その身を崩すことは起業家の周りでも時折聞く話です。

さらいにえば、情熱を持って何かに取り組むことは大きな副作用を伴います。その一つは自分の生活や人生における様々なバランスを失うことです。アスリートや起業家は情熱を持ってトレーニングや仕事に取り組み、時間を費やすからこそ成果を出せます。しかし同時に家族や友人関係、あるいは自分自身の健康といった他の面を犠牲にしがちです。一つの強い情熱を追いかけようとすると、ほかの情熱を追いかけることも、別の情熱の種となる興味関心を育てる時間の確保も難しくなるでしょう。

そのバランスをうまく取っていくことは難しく、むしろ不可能に近いことです。情熱を見つけたら、そのあとは常にアンバランスな状態の中で、自分の時間や注意をどこに向けるべきかというトレードオフに悩まされることになります。場合によっては、アンバランスすぎて人間的な生活が送れないかもしれません。常に孤独に悩まされるかもしれません。誰かと一緒にいても、つい情熱を向けるもののことを考えてしまって、誰かと一緒にいることが億劫になってしまうかもしれません。私自身、仕事をしすぎた時期があり、そこで多くのものを犠牲にしてしまったことがあります。

人によっては情熱なんてないほうが生きやすいこともあります。

そうすれば、静かに日々を過ごすことができるかもしれないからです。

だから情熱を持つな、と言っているわけでは決してありません。情熱をもって仕事に取り組んだり、情熱的な関係を築いたり、情熱的な趣味を持つことは、幸福へとつながる(唯一ではないとしても)一つの道だと考えています。そして多くの場合、情熱とともに生きることは喜びを提供してくれます。

しかし情熱を見つけたあと、あるいは情熱を育てたあと、そこからはすべて簡単にうまくいく、ということは恐らくないのでしょう。愛であれ情熱であれ、それらしきものを見つけたら楽になるわけではなく、そこから新たな困難な旅路が始まります。

私たちは情熱に従わされるのではなく、情熱をうまく従えなければなりません。それには意識的な不断の努力や、幾多もの失敗といった困難を伴うものです。

情熱に従うのではなく、情熱を従える。そのための技術を磨く

フロムは『愛するということ』でこのようにも述べています。

たとえば、つよい不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的にみえてじつは「受動的」である。自分の意志ではなく、駆り立てられて(、、、、、、、)いるのだから。(p. 41)

同様に、私たちは情熱に対して受動的にならず、能動的に自分の意志を持って付き合っていく、言い換えれば、情熱の奴隷として情熱に従うのではなく、情熱を自分で従えられるようになる必要があります。

The Passion Paradox では、「調和的な情熱 (harmonious passion)」と「強迫的な情熱 (obsessive passion)」とを区別する論文を引用しながら、調和的な情熱を持つ人たちのほうが満足度や幸福度、そしてパフォーマンスが高いことを示しています。一方、強迫的な情熱は、成果や他者評価を基にする情熱で、長続きしないと言われています。

愛と同様に情熱は変わっていくものです。調和的だった情熱がいつしか強迫的な情熱になってしまうことは誰にでもあるように思います。だからこそ私たちは情熱に従うのではなく、情熱をうまく自分に従えなければなりません。

新しい元号の『令和』は、英語で言えば Beautiful Harmony だそうですが、一度見つけた情熱も、そうした調和の取れた情熱へと常に整え続け、クラフトし続けていく必要があるのでしょう。

「やりたいことが見つからないのですが、どうすれば良いですか?」と問われ、「興味関心を見つけて、それを情熱へと育てよう」と答えたとき、興味を情熱へと育て上げていく中で幾多の困難が待ち受けることを伝えるべきでしょう。

そして興味関心から「情熱」へと育て上げた後にも困難が待ち受けていることを伝えたほうが、より誠意のある回答になるように思います。

情熱が見つかった後にも困難が待ち受けていることを知るのは、彼らにとってはあまり嬉しい回答ではないかもしれません。しかし「やりたいことが見つからなくて苦しい」という悩みの先に、「やりたいことが見つかったとしてもそれなりに苦しい」という悩みがあることを知っておくことは、リアリティショックと同様に、情熱の種に対して粘り強く取り組めるようになる、一つのアドバイスになるのではないかと思います。

情熱は技術だ、習練(プラクティス)で身に着けられる。だから大丈夫、きっとうまくいく。

ただその立ちはだかる困難と一緒に、希望も伝えるべきではないかと思います。

私たちは、情熱の扱い方にうまくなれるかもしれない、という希望についてです。

フロムは「愛は技術である」とも述べます。そして愛が技術だとしたら、知識と習練 (プラクティス) によって学べるものだと彼は述べています。

愛の失敗を克服する適切な方法は一つしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。

そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。どうすれば人を愛せるようになるかを学びたければ、他の技術、たとえば音楽、絵画、大工仕事、医学、工学などの技術を学ぶときと同じ道をたどらなければならない。(中略)

技術を習得する課程は、便宜的に二つの部分に分けることができる。一つは理論に精通すること、いまひとつはその習練に励むことである。

もし情熱が愛に似ているのであれば、情熱もまた技術であり、訓練によって学べるものだとも言えます。最初は下手かもしれません。多くの失敗をするかもしれません。うまくいかないこともあるでしょう。苦しいこともあります。しかし私たちは練習や失敗を経て、失敗から学びながら、自分の情熱の上手な扱い方を学んでいけるはずです。

先ほど紹介した海野さんの記事でも、メンタルマネジメントが実践を通して徐々に形作られていたことが分かります。新刊の『成功する起業家は「居場所」を選ぶ』でも、バブソン大学のアントレプレナーシップ教育の方針を参考にして、「アントレプレナーシップはプラクティス(実践、訓練、練習)である」というスタンスで書いています。授業もそうした構成にしていて、起業家精神(アントレプレナーシップ)も情熱も習練を通してうまくなるはずだと信じています。

実際、多くの起業家の話を聞けば、幼少のころに小さな事業(オンラインで物を売ったり、広告つきのWebサイトを運営したり、それこそアメリカだとレモネード売り)の経験があり、そこでの習練を基に挑戦を徐々に大きくしている印象があります。彼らもまた修練を積んでいたのです。

良い技術の習練には規律と集中、忍耐、そして関心が必要だとフロムは述べますが、私たちも同様に、情熱を育て、情熱の中に正しくとどまり続けるためには「習練(プラクティス)」していけばいいのです。

この立場に立てば、良いことが一つあります。誰かが情熱を傾けられそうなことを見つけて、その取り組みに一度失敗したとしても、「それは当然のことであり心配することはない。理論を知り、習練を積めば、これからきっとうまくなる」と伝えることができます。ちゃんと練習すれば、徐々に習熟していくから大丈夫、と。

そして「情熱は技術であり、その背景となる理論を知って、習練を重ねることで修得できる」と伝えること、つまり情熱は才能ではないと伝えることは、多くの人にとって希望にもなるはずです。またそれは、私たちが失敗してめげる人たちに対して「きっと大丈夫、練習すれば次はうまくいく。だってそういうものだからね」と言うための論拠にもなってくれることでしょう。あるいは、まだ習練が足りずに挑戦が早すぎたのかもしれないね、ということもできるかもしれません。

そして習練であれば、様々な教育の知見を使うことができます。たとえばコルブの経験学習のモデルを用いて、どのように経験を通して学習していけるかなどを考えることもできるでしょう。

コルブの経験学習のモデル

たとえばこのモデルを使って行った研究によれば、新卒 1 ~ 2 年目の新入社員は具体的経験を持つことが能力向上に優位に効果があり、3 ~ 9 年目になると 4 つのすべてが能力向上に効果があるとされています(中原『経営学習論』より)。

もしこの知見が「情熱の学習」にも応用できるのであれば、まだ情熱を持ったことがない人なら情熱の元となる興味関心を具体的に経験することから始めてみたり、あるいは既に情熱を持ったことがある人であれば、そこから内省的な観察をしていくことも効果的だと言えるのではないでしょうか。

まとめ

  • 情熱を見つけるのではなく、情熱を育むこと。育てるのなら誰かと一緒にもできること。
  • そして情熱に従うのではなく、情熱を従えること。それはとても難しいけれど、習練によって学べること。

そんな風に情熱を捉えることで、私たちは「やりたいことがないのですが、どうすれば良いでしょうか?」という質問に対して、一歩進んだ回答ができるのではないかと今は考えています。

そして恋愛や結婚を維持するためのノウハウが、恋愛のはじめや結婚の仕方に比べて表に出ていないのと同様に、情熱を維持するためのノウハウはあまり表に出ていないように思うので、今後は情熱を維持するために各人が何をやっているかといった話が出てくることを願っています。

5/6 追記: 次の記事を書きました。

前の記事はこちらです

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Taka Umada

The University of Tokyo, Ex-Microsoft, Visual Studio; “Nur das Leben ist glücklich, welches auf die Annehmlichkeiten der Welt verzichten kann.” — Wittgenstein